生野区には公立の中学校が9校あります。
どこの学校にも生野区の歴史が、とても反映されており、地域と結びついた学校であることを示しています。
住みよいまちとコミュニティづくり
生野区が生まれて50年余り。この間、住みよいまちづくりのために、道路の拡張・整備や下水道の敷設、
河川の改修、公園の増設、交通網の拡充など、生活環境は急速によくなってきました。また、住民主体の
活動による、地域づくりに力が注がれ、人情味あふれる気風とともに、市内有数の事業所数を持つ特つ区と
して発展を続けています。
ぬくもりの町、生野
生野区では日本人と韓国・朝鮮人が、互いの文化・生活習慣の違いを理解・尊重しあって、
ともに暮らしています。また、隣近所の結びつきが強いことから、老人や障害者も暮らしやすい
地域になっています。生野区では国際化やバリアフリーの社会が日本の他の地域に先駆けて
築かれています。
生野区の歴史
生野区の誕生
昭和18年(1943)4月に、東成区から分区して生野区が誕生しました。区名の起こりは、生野の名称が由来深く、また生野中学・生野高等女学院・生野工業高等学校などの名の知れた施設が多かったことから、生野区と呼ばれるようになったそうです。
豊かな農村、生野
私達の生野区は、東成群鶴橋村、生野村、小路村の一部にあたります。これらの地域は、平野川・猫間川などの水利に恵まれ、明治の中頃までは、米・麦をはじめ、菜種、綿などを栽培する豊かな農村地帯として広がっていました。当時この地域の戸数は約950戸、人口約5000人であったそうです。
鉄道により都市化
しかし、その後の市街地化はめざましく、とくに、明治28年(1895)に開通した大阪鉄道(現在のJR大阪環状線天王寺〜大阪)や大正3年(1914)に開通した大阪電気軌道(現在の近鉄奈良線上本町〜奈良)などにより、商工業が発達し、都市化が急速に進みました。
農村から商工業の町へ
大正時代になると平野川開削工事が行われ、地域整備がさらに進みました。また、主な産業が農業から加工業に移り、鶴橋の鏡、生野のマッチや田島の眼鏡レンズ、小路の碁石、くしなどが特産品とされました。第一次世界大戦後には、鉄工業やメリヤス、防水布、セルロイド製品、ブラシなどを生産する中小の工業増えるとともに住宅建築も進み、人口が急速に増加しました。
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生野区の花