南百済小学校の校区を分離

 

 湯里小学校の歴史は,南百済(みなみくだら)小学校から始まる。
 明治7年に創立した南百済小学校は,年々,子どもたちがどんどん増え,東田辺国民学校(今の,東田辺小学校),鷹合小学校や今川小学校と校区を分けていった。
 それでも,昭和40年ごろには,南百済小学校の子どもたちは,2000人をこえ,学級数も,40学級をこえる,『マンモス校』にふくれあがった。
 そこで,さらに校区を分けて,新しい学校をつくろうとの声があがった。しかし,PTAや地域のみなさんが,「これは,なんとかしなければならない」と考え本格的に,声が高まったのは,それから間もない,昭和48年ごろだった。

南百済小学校と合同で入学式

 学校の場所は,「大阪市東住吉区湯里4丁目170番地」と決まった。地域のみなさんのご協力のおかげである。
 昭和50年5月には整地が始まった。9月には『地鎮祭(じちんさい)』が行われ,第1期工事(北校舎を中心とした工事)が始まった。
 翌年,昭和51年3月31日に第1期工事が完成。
 4月1日付けをもって,「大阪市立湯里小学校」が誕生した。

  しかし,第1回目の入学式は,4月7日に南百済小学校の講堂で,南百済小学校と合同で行われた。また,始業式も,南百済小学校で行われた。

 湯里小学校には,講堂もプールもなかった。
 『ゆざとっこ』は1年生から4年生までで,465人の学校としてスタートした。講堂は,昭和52年の第2期工事で建つことになった。

 ちなみに,運動場は,東西に道が走っており,「北運動場」と「南運動場」に分かれていた。当時の様子は,牧場のように板でさくが作ってあり,当時,そのさくを見て,テレビ番組の名前の「ララミー牧場みたい」と話していた。
 
 

7月にはプールが完成。学校としての機能を果たせる設備がひとまず出揃ったので、11月19日に開校式が挙行された。そしてこの日、初代校長・福本於京氏原案、寺内勝彦氏作曲による校歌も制定されている。