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わたしたちの学校の歴史(旧4校のうつりかわり)
南小学校は、昭和62年に大宝・道仁・芦池の3つの小学校が統合し、平成7年に精華小学校との統合で新たにスタートしたことは、前述しました。ここでは、南小学校の創立10周年記念誌「わたしたちの町 みなみ」(平成9年3月1日 発行)から、南小学校の歴史をふりかえってみます。
これらの4つの学校は、明治5年(1872)に国から学校制度に関するきまりを出されたころにできました。各校とも、120年近くの長い歴史を持っていました。それぞれ何度か校名が変わったり、校舎の建て替えがあったりしましたが、開校当時から町の人々の協力をいただき伝統のある学校として多くの先人を送り出してきました。
ふしぎなことに、これらの4校のつながりは昔からあり、終戦後(1946年)の3月、戦災を受けた道仁・芦池・精華の小学生は、被害の少なかった大宝小学校に通うことになりました。
その後、町の人たちは、自分たちの町に学校をと強く願い、それぞれの学校が次々と復校していきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こ ぼ れ 話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治初めの小学校は、8年間もあり、6カ月ごとに進級テストがあって、合格しないと上の級に進めませんでした。
教科は、読方(先生の音読に続いて全員で読み、後で言葉の意味を聞く)、習字、算術(平らな黒い石の板“石ばん”にろう石で計算する)、諳誦(読方で習った文章を暗唱する)を学習しました。また、当時の登校時の服装は、ほとんど全員キモノ姿でした。そして、これらの4校には、商家の子どもが多く、キモノの帯から前だれをさげて登校る子どもが多かったそうです。
旧大宝小学校(だいほうしょうがっこう)
(1872〜1987)
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大宝小学校は、明治5年 (1872年)5月に円融寺内の寺子屋を簡易小学校としました。その後、造り直して南大組第10区小学校として開校しました。旧南区では、一番早く開校した学校です。
明治10年2月16日には、明治天皇が大宝小学校に来られました。その様子(馬車に乗った天皇が校門に入る場面)を描いた絵(小出楢重作)が今も南小学校の記念室に大切にかざられています。 大正13年9月には、鉄筋コンクリート造りの校舎に建て替えられました。当時は、木造の校舎がほとんどで、鉄筋コンクリート造りの小学校は、全国でも非常にめずらしいものでした。昭和39年4月には、大宝小学校言語教室ができました。言語教室では、発音や発声などについての指導をしていました。当時、言語教室は、全国でわずか6学級しかありませんでした。
大宝小学校では、ことばの教育に力を入れ、言語教室に入りたい大阪市内の小学生であればだれでも受け入れて、そこで勉強できるようになりました。現在でも、南小学校で「ことばの教室」として引き継がれています。
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旧道仁小学校(どうにんしょうがっこう)
(1873〜1987)
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道仁小学校は、明治6年(1873)4月に南大区第1小区第11番小学校として開校しました。この地域には、江戸時代から町の人が学問を学ぶ所として有名な、心学明誠舎や泊園書院という学問所がありました。これらは、南区だけでなく、大阪全体の教育に大きな影響を与えました。泊園書院の先生の子であった作家の藤澤恒夫さんは、道仁小学校の卒業生で、大正時代の初めの思い出として「私の子どものころは男女ともほとんど全部がキモノ姿であった。それも、さすがに商家が多いらしく、三尺帯と100周年記念誌で語っていました。
道仁小学校は、昭和37年に大阪市小学校学童体育発表会で、集団行動とリズム行進を発表しました。また、昭和39年から46年までの8年間、器楽クラブが全国学校音楽コンクールで大阪府の最優秀校に選ばれ、全国第2位を2度も得ました。また、子ども音楽コンクールでも西日本最優秀校に選ばれるなど輝かしい活動が進められました。
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旧芦池小学校(あしいけしょうがっこう)
(1873〜1987)
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芦池小学校は、明治6年(1873)6月に安堂寺橋通りに南大組第6区小学校として開校しました。
芦池小学校では、「学力研究会」という学習をしていました。これは、2人の子どもが向かい合い、出された問題について賛成と反対に分かれて、議論のやりとりをするのです。
この研究会は、他の小学校にも広がっていきました。明治10年には、大阪の各小学校の児童の代表が南御堂に集まって、学力研究会が行われました。当時に出席した芦池小学校の児童は、たいへん優秀だったので、明治天皇から賞賛され、本代をいただきました。
大正から昭和にかけては、体操教育に力を入れ、学校の施設や設備を整えたので、文部大臣から表彰されました。そして、昭和の初めに、校舎内に人工陽灯が設置されました。これは、部屋の中で日光浴のかわりができる便利な機械で、じょうぶな体をつくるために役立ちました。
その後も、芦池小学校の目標である「たくましい子どもに育つ」をめざして、いろいろな取り組みが行われました。
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旧精華小学校(せいかしょうがっこう)
(1873〜1995)
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精華小学校では、明治6年(1873)2月に法祐寺本堂で第2大区第14番坂町小学校として開校しました。
現在に残っている校舎は、昭和5年(1930)に建てられたもので、当時、鉄筋コンクリートの校舎は、とてもめずらしいものでした。
また、20人乗りエレベーターが2基あり、全教室や廊下にまで暖房装置があるなど、設備面でも日本一だと言われていました。
終戦直後は、校舎内にダンスホールや写真屋、理髪店、ビリヤード場などが入りこんでいました。それらの店が立ちのいてしばらくすると、大阪で最も早く給食が再開しました。当時は、商売をしている家庭が多く、希望する子どもは、朝食も学校で食べることができました。
給食が始まった頃から、児童の健康教育にも力を入れるようになりました。昭和35年には、シーズンオフに蓋をして運動場として使えるような掘り下げ式のプールが完成しました。
昭和43年には、健康優良校で大阪府の第1位となり、全日本健康優良特選校として、宮中で天皇皇后両陛下から表彰されました。
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