地 域 紹 介 

 

 地域紹介

 

   本地域は、都島区と旭区に隣接し、城東区内では北西のはずれに位置する。

  京橋ターミナルに近く、生活利便な地のりである。

  大阪大空襲の際は、京橋との境を流れる川で延焼を免れた。(現在、川は道路になっている。)  それ故、校区の家並みは昔の名残をとどめている。

  地域の人たちは、伝統を大切にし、互いに助け合いながら諸行事を推し進め、情が厚い。

  とりわけ、学校に対する思い入れは深く、地域あげての子育ては、他校に参考となることが多い。

    主な地域の活動 

・ 子どもを考えるセミナー

・ 盆踊り大会

・ 校庭キャンプ

・ 伊賀キャンプ

・ もちつき大会

・ こども会活動 

・ 吹奏楽「パレット」活動

 これらの活動は、すべてPTA、町会他の団体が横断的に協力しあって進められている。

 町の歴史

 

   この地に人が住み始めたのは、8世紀(奈良時代)の始めの頃だと推測される。

  それまでは、海の底であった。

  陸地となり、住み着いた人たちは、「あぶらな」を作り、その種から油を作っていたので、当時、「油江村」と呼ばれていた。

  平安時代の中頃、「榎並荘」という荘園が作られた。

  鎌倉幕府滅亡後、この地はたびたび戦場になり、戦国時代には、榎並城が建てられている。(このころの城は、天守閣もない小さなものだった)

  榎並城の城主、三好宗三が、度重なる洪水に悩まされ、1548年 水難の守り神としてお祀りしたのが水神社であるといわれている。

  江戸時代になり、検地の整備とともにこの地は東成郡となった。

  米作は、相変わらず洪水に悩まされ、収穫がほとんどない年も記録にある。

  村の中心にある来迎寺は村人の心や教養の支えとなり村の発展に寄与した。

  村の子どもたちには、住職が「よみ、かき、そろばん」を教えていた。いわゆる寺子屋である。

  明治5年、学制が発布され、明治9年 この地に小学校ができた。  そのときにも、中心になったのは、お寺の住職さんだった。

明治から大正にかけて 

 野江村に小学校ができたのは、明治9年(1876)である。当時は、隣の関目村や内代村からも子どもが集まり92名で発足した。 

 教室はひとつ、先生一人という状況だった。 

 この頃は、すべての子どもたちが学校に行ったのではない。貧しくて学校にいけない人もたくさんいた。 

 明治18年(1885)6月 大雨で今の枚方公園付近の淀川の堤防が切れ、15kmも離れたこの地にもその水が押しよせ、1階の屋根のひさしまでつかる洪水にあった。 

 水がひきかけた頃、再度大雨が降り、結局8月まで水つかりの状態が続いた。 

 水害後、野江小学校は使えず、子どもたちは近くの野田小学校へ2年間通った。 

 明治43年(1910)4月 京阪電車が開通し、榎並村を通るようになった。 

 村人は大阪市内へ働きに出かけるようになった。また、よそからこの地に移って来る人も増えた。そして、この地にも小さな工場が建ち始めた。 

 (明治45年(1912) 市内に電燈がともる。) 

 大正11年(1922)に上水道が敷かれた。それまでは、「水売り」から水を買っていた。村には井戸があったが飲み水には適さなかったようだ。洗い物などは、近くの川でしていた。 

昭和以降 

 昭和3年(1928) 片町から出たバスが野江を通るようになった。 

 また、この頃、道路も梅田へ通じるようになった。残念ながら市電は都島本通から赤川へぬけ、この地は通らなかったが、野江の交通事情は大きく変化した。 

 昭和9年(1934)9月 大阪を襲った室戸台風は、学校の木造校舎を倒した。幸い人命の被害は免れたが、12教室失った。 

 昭和13年(1938) 榎並に初めて鉄筋校舎が建てられた。当時の建物としては、この付近で一番高い建物であった。 

 世の中は戦争一色に変わっていく。 

 国内の物資不足も深刻になり、鉄筋校舎が建つはずが、木造校舎に変更されたりもした。 

 空襲の恐れが出てきた昭和19年(1944) 学童疎開が始まった。  城東区の子どもたちは、福井県に行った。 

 戦後、教育制度が大きく改革され、今に至っている。

   昭和52年3月に地下鉄の駅ができ、平成4年には榎並福祉会館が建てられた。

   現在、工場の跡地などにマンションや住宅が建てられつつある。